夏の夜空にドーンと咲く花火を見ながら、「これっていつ、どこで生まれたんだろう?」って思ったことありませんか?
花火の歴史は、実は古代中国の「狼煙(のろし)」や火薬の発明からスタートしていて、そこからシルクロードを通ってヨーロッパへ、そして日本へと、長い時間をかけて伝わってきたんです。武器としての火薬と、人を楽しませる花火という2つの顔を持ちながら発展してきたところも、花火の歴史のおもしろポイントです。
この記事では、花火の起源から中国・ヨーロッパでの発展、日本での花火文化の成立、江戸時代の花火師さんたちの活躍、そして明治以降の技術革新まで、花火の歴史をざっくり時代順に深掘りして紹介します。確かな記録や資料をベースに、正確な内容をお届けします。
「花火ってどうしてこんなに美しく進化したの?」「日本独自の花火文化はどうやって生まれたの?」そんな疑問を持っている方は、ぜひ最後まで読んでみてください。
花火の歴史はどこから始まった?起源と発祥をたどる
花火のルーツをたどっていくと、実は武器ではなく「合図」としての火薬利用にまでさかのぼります。ここでは、火薬の発明から花火の原型が生まれるまでの流れを見ていきましょう。
火薬の発明と「狼煙」が果たした役割
花火の起源については諸説ありますが、一般的には古代中国の狼煙(のろし)がルーツとされています。
狼煙とは、煙を使った通信手段のことで、敵の侵入などを味方に知らせる合図として使われていました。中国では万里の長城の要所に設けられた峰台から、昼は煙、夜は薪を焚いて合図を送っていたと伝えられています。
この夜間の合図のときに使っていたのが、黒色火薬の主原料である硝石でした。これが後の火薬発明につながったという説が有力なんです。中国では硝石が焚火に入ると不思議な燃え方をすることが古くから知られていて、これが火薬研究のきっかけになったと考えられています。
その後、火薬の技術が発達するにつれて、合図のための狼煙から、観賞や祝祭のための花火へと役割がどんどん広がっていきました。火薬と花火の歴史は、こうした軍事的な実用と、人を驚かせて楽しませる演出という両面から、少しずつ形作られていったというわけです。
中国で花火が発展した経緯
花火に欠かせない黒色火薬がいつ発明されたのかについては、実は正確なところがよく分かっていません。硝石・硫黄・木炭を混ぜ合わせた黒色火薬は、最も古くから知られる火薬の一種ですが、その発明時期は諸説あって、唐の時代(西暦618年~907年)に発明されたという説もあれば、もっと後の時代だという説もあり、今のところはっきりした定説はないというのが実情です。
火薬はやがて軍事技術者の手に渡って、武器としても使われるようになりますが、同時に祝祭や儀礼の場でも使われるようになっていきました。中国の南宋時代(1127年~1279年)には、爆竹やねずみ花火に近いものが市場に出ていたという史料も残っています。
中国における花火は、邪気や悪霊を追い払うための儀式という側面も持っていたと言われています。大きな音と光で人を驚かせるという花火の本質的な楽しみ方は、すでにこの時代から存在していたことになりますね。
このように中国では、火薬の軍事利用と祝祭利用が並行して発展していき、花火という文化の土台が築かれていったんです。
シルクロードを通じてイスラム諸国へ伝わった火薬
中国で発展した火薬と花火の技術は、シルクロードを経て13世紀ごろ、商人を通じてイスラム諸国へ伝わっていきます。
こうしてイスラム諸国に伝わった火薬は、武器としての利用とともに、花火としての利用も広がっていきました。この時代の火薬の伝播は、東西の交易ネットワークがどれだけ技術の伝達に重要な役割を果たしていたかを示す、いい例といえそうです。
イスラム文化圏を経由したことで、火薬と花火の技術はさらに地理的な広がりを見せ、最終的にヨーロッパへとたどり着くことになります。花火の歴史を語るうえで、この中継地点としてのイスラム諸国の存在は欠かせません。
こうして花火の技術は、中国という発祥の地を離れ、世界各地へと広がっていく長い旅路を歩み始めたのです。
ヨーロッパに伝わった花火の歴史と発展の様子
花火がヨーロッパに伝わると、宗教行事や王侯貴族の祝祭と結びつきながら、観賞用の花火として独自の発展を遂げていきます。
イタリア・フィレンツェで観賞用花火が誕生
現在のような観賞用の花火が初めて作られたのは、14世紀後半のイタリア・フィレンツェだとされています。
当初、花火はキリスト教の祝祭の場で、口から火を吐く仕掛けを施した人形などに使われていたと伝えられています。宗教的な儀礼のなかで人を驚かせ、感動を与える演出として、花火が活躍していたんですね。
その後、花火は王侯貴族の間でどんどん取り入れられるようになり、結婚式や戴冠式といったおめでたい場で打ち上げられるようになりました。ヨーロッパでの花火製造はイタリアが盛んな地域として知られていて、火薬と花火製造の技術が体系的に蓄積されていきました。
このように、ヨーロッパにおける花火の歴史は、宗教行事という厳粛な場から始まり、徐々に王侯貴族の祝祭文化へと広がっていったという特徴があるんです。
イングランドにおける花火技術の進歩
16世紀になると、イングランドで花火の技術が大きく進歩します。1532年、ヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川にて水上花火を楽しんだという記録が残っています。
17世紀には、イングランドの国王ジェームズ1世がデンマークから技術者を招いて、娘エリザベスの結婚式を花火で盛大に祝ったという記録もあります。また1672年にはウーリッジ兵器廠に花火研究所が設立され、1683年には花火に関する専門的なテキストが刊行されるなど、花火技術がどんどん体系化されていきました。
こうした王室主導の花火文化の発展は、花火がただの娯楽ではなく、国家の威信や祝祭儀礼の重要な一部として位置づけられていたことを物語っています。
イングランドでの花火技術の蓄積は、その後のヨーロッパ各国における花火学校の設立にもつながっていきました。
ヨーロッパ各国で花火学校が設立された時代
17世紀になると、ポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、体系的な知識を持つ専門的な花火師集団が形成されていきました。
これによって、花火製造は経験や口伝に頼るだけのものから、組織的に技術を学んで継承していく専門分野へと発展していきます。花火師という職業が確立されたのも、この時期のヨーロッパならではの特徴なんです。
花火学校の設立は、花火の安全性や演出の質を高めるうえでも重要な役割を果たしました。火薬の配合や打ち上げの技術が体系的に蓄積されることで、より大規模で精緻な花火の演出が可能になっていったのです。
このように、ヨーロッパにおける花火の歴史は、宗教儀礼から王室の祝祭、そして専門職としての花火師の確立という段階を踏んで、独自の発展を遂げていきました。
日本における花火の歴史はいつから始まったのか
日本の花火の歴史は、中国やヨーロッパに比べるとかなり後の時代に始まります。ここでは、日本における花火の最古の記録から、戦国時代にかけての様子を見ていきましょう。
室町時代に記された日本最古の花火の記録
日本における花火の最古の記録は、室町時代の公家・万里小路時房の日記『建内記』に見ることができます。1447年(文安4年)の記述によると、浄華院での法事の後、境内にて「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったとされています。
この記録には、竹で枠を作って火で薄や桔梗などの形を表現したものや、火を付けると空中を流星のように飛ぶ仕掛けなどが披露されたことが記されています。時房はこれを「希代之火術也」と褒め、褒美を与えたとされていますから、よほど驚いたんでしょうね。
この時代は、足利義満の死後途絶えていた日明貿易が足利義教によって再開された時期にあたり、花火も大陸から持ち込まれていたと考えられています。つまり日本における花火の歴史は、中国大陸との貿易関係を背景に始まったといえそうです。
このように、日本最古の花火の記録は外国人によってもたらされたもので、日本独自の花火文化が確立されるまでには、まだもう少し時間が必要だったんです。
鉄砲伝来とともにもたらされた火薬
日本の花火の歴史を語るうえで欠かせないのが、1543年(天文12年)の種子島への鉄砲伝来です。このとき、鉄砲とともに火薬も初めて日本にもたらされました。
ただ、伝来当初の火薬は、まず戦争の道具である「火器」として使われることが優先されました。鉄砲がその後の日本の戦国時代を大きく変えていったのはよく知られた話ですが、花火としての利用が広がるのは、もう少し先の時代になります。
少なくとも戦国時代には、鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火も伝わっていたとされていて、キリスト教の宣教師や中国人商人といった外国人の手による花火の記録が、この時期に多く見られるようになります。
1582年(天正10年)には、ポルトガル人のイエズス会宣教師が今の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使ったという記録が、『イエズス会日本年報』などに残されています。聖週間の祭儀では、城楼から花火細工が出てくる仕掛けが使われたとされています。
戦国時代における花火見物の記録
戦国時代から江戸時代初期にかけて、大名たちが花火見物を楽しんだという記録も残されています。
伊達政宗が居城の米沢城で、1589年(天正17年)に「大唐人」による花火を見物したという記録(『貞山公治家記録』など)や、1613年に徳川家康が駿府城で英国使節ジョン・セーリスと謁見した際、同行した明の商人から花火を見せられたという記録(『駿府政事録』など)が知られています。ただ、政宗に関する記録は元禄期に編纂された資料がもとになっていて、家康の記録と内容がよく似ている点などから、史料としての信頼性には議論があることも付け加えておきますね。
これらの記録からは、戦国時代の有力な大名たちが、すでに花火という外国由来の珍しい見世物に強い興味を示していたことがうかがえます。火薬が戦の道具だった時代に、平和な娯楽としての花火がどんなふうに受け止められていたのかを知る、貴重な手がかりといえるでしょう。
外国人から花火の技術を学んで日本でも独自に花火が作られるようになったと考えられていますが、その最初の詳細についてはよく分かっていません。このように、戦国時代の日本では、花火はまだ外国人によってもたらされる珍しいものという位置づけにあって、日本人自身による花火製造が本格化するのは、戦乱が終わった江戸時代を待つことになります。
江戸時代に花火の歴史が大きく花開いた理由
戦乱が終わり、平和な時代を迎えた江戸時代になると、花火は庶民の娯楽として大きく発展していきます。鍵屋や玉屋といった花火師さんたちの活躍も、この時代の大きな特徴です。
花火専門業者「鍵屋」の誕生
江戸時代になって戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋さんが登場するようになります。現存する日本で最も古い花火業者として知られているのが、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋です。
鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(今の奈良県五條市)の出身で、幼い頃から花火作りが得意だったと言われています。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は、葦の中に星(火薬を球状に成形したもの)を入れた玩具花火を売り出しました。
弥兵衛はその後も研究を続けて、両国横山町に店を構えて「鍵屋」を屋号にし、代々世襲するようになります。さらに大型花火の研究を進めて、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げたという記録も残っています。
徳川幕府は1648年に隅田川以外での花火を禁止する触れを出していますが、これは当時すでに花火が江戸の庶民の間で大人気だったことを示しています。こうした規制と人気の高まりのなかで、鍵屋をはじめとする花火専門業者がどんどん存在感を増していきました。
鍵屋と玉屋、二大花火師の競演
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋です。玉屋は、六代目鍵屋の手代だった清吉が1810年に暖簾分けをして、市兵衛と改名のうえ両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりでした。
「玉」と「鍵」はどちらも稲荷信仰における狐が守護するものとされていて、稲荷信仰が盛んだった江戸らしい屋号だったといわれています。両国の川開きでは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになり、「たーまやー」「かーぎやー」というあの掛け声が生まれたんです。
当時の浮世絵には玉屋の花火が多く描かれていて、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたこともうかがえます。しかし1843年(天保14年)、玉屋から火災が発生し、店だけでなく周辺の町並みまで焼いてしまう事態になりました。当時、失火は重罪とされていたため、玉屋は財産没収のうえ江戸追放という厳しい処分を受け、わずか一代で家名断絶となってしまったんです。
このように鍵屋と玉屋という二大花火師の存在は、江戸の花火文化を大きく発展させる原動力になりましたが、その繁栄は必ずしも長く続いたわけではなかったんですね。
御三家花火と武家花火が江戸を盛り上げた
江戸の花火には、鍵屋のような花火専門業者による「町人花火」のほかに、大名たちが配下の火薬職人に命じて打ち上げさせた「武家花火」もありました。
特に火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の徳川御三家の花火は「御三家花火」と呼ばれて、江戸の町人たちにとても人気がありました。仙台の伊達家による武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映したものとして、仙台河岸の花火として人気を集めていました。
武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化した「狼煙花火」と呼ばれていて、垂直方向の演出に重きを置いたものでした。これに対して町人花火は、色や形を楽しむ仕掛け花火が中心の、平面的な演出が特徴でした。この両者の方向性の違いをうまく取り入れたことが、現代の日本の花火技術の基盤になったとされています。
なお、当時の打ち上げ花火は全体的に玉が小さくて、幕末になってようやく四寸玉が登場したくらいで、今のような尺玉はまだ存在しませんでした。打ち上げの間隔も長く、1晩に20発ほどしか上がらなかったとされていて、今の花火大会とはかなり様子が違っていたんです。
明治時代以降、花火の歴史はどのように変化したのか
明治時代になると、海外から新しい化学物質が輸入されたことで、花火の色彩表現が一気に豊かになります。ここでは近代化以降の花火の歴史をたどっていきましょう。
「洋火」の登場で花火がカラフルになった
江戸時代までの花火は「和火」と呼ばれていて、炭火色といわれる橙色の強弱だけで表現されるものでした。明治元年(1868年)には、ヨーロッパで18~19世紀の化学の発展によって生まれた新しい化合物を原材料とする「西洋花火」が、日本に初めて輸入されました。
明治時代に入ると、塩素酸カリウムやアルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった薬品が海外から輸入されるようになり、これらの物質の輸入は1879年から1887年にかけて段階的に進んでいきました。これによって、それまで橙色一色だった花火に、新しい色彩と明るさが加わることになったんです。
円形に広がる花火が主流になったのは明治7年(1874年)以降、花火の色合いが派手になったのは明治20年(1887年)以降とされています。これより前の技術で作られた花火を「和火」、これより後のものを「洋火」と呼び分けることもあります。
多彩な色彩を持つ洋火を大規模に打ち上げた記録として知られているのが、1889年2月11日、大日本帝国憲法発布の祝賀行事で皇居の二重橋から打ち揚げられた花火です。この出来事は、日本の花火がカラフルな現代的なスタイルへと変わっていく大きな転換点になりました。
大正・昭和期における花火技術の発展と戦争による停滞
大正期には、発光剤としてマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場して、夜空にいっそう鮮やかな大輪の花を咲かせられるようになりました。塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した「赤爆」も編み出され、大きな発音効果を持つ花火が完成していったんです。
それまで花火の製造や打ち揚げには免許も規制もなかったのですが、1910年に許可制が導入されました。これにともなって、化学知識を活用する必要から花火師の専業化が進んでいきました。
しかし昭和に入ると、日中戦争など戦火が拡大する世界情勢のなかで、花火文化は停滞期を迎えてしまいます。花火製造そのものは禁止されなかったものの、高い物品税がかけられるようになりました。出征兵士の壮行や英霊を迎える慰霊のための花火は打ち上げられていましたが、隅田川の川開き花火大会も1937年には中止になってしまいました。
戦時中、花火製造業者は防空演習で使う発煙筒や、焼夷弾の音を再現する焼夷筒の製造にあたっていました。花火という平和な文化が、戦争という時代の波に大きく影響を受けてしまったことがよく分かりますね。
戦後復興と花火大会の再開
第二次世界大戦の敗戦後、1945年9月には長野市の諏訪神社で花火が揚げられましたが、翌10月には連合国軍総司令部(GHQ)によって火薬製造が禁じられてしまいました。
それでも1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本の業者がアメリカ独立記念日の打ち揚げ花火を揚げています。戦後初の花火大会としては、1946年8月10日に岐阜市の長良川河畔で全国煙火大会が開催され、同年9月には茨城県土浦市で全国煙火競技大会も行われました。
日本の花火製造業者の粘り強い説得が実を結び、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可しました。これを受けて、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活し、打ち揚げ許可量はわずか600発でしたが、平和な時代を象徴する大輪の花に70万人もの観客が集まったとされています。
このように、戦後の花火大会の復興は、日本社会が平和を取り戻していく過程と深く結びついていたといえます。花火がただの娯楽ではなく、人々の心を励ます存在として機能していたことがうかがえる出来事ですね。
現代における花火の歴史と今後の広がり
現代の花火は、安全規制の整備や国際的な生産構造の変化とともに、新しい形で発展を続けています。
花火に関する法律と安全規制の歴史
日本では花火に関して火薬類取締法による規制が設けられています。煙火(一般的な打ち上げ花火など)の製造や輸入には許可が必要で、販売についても許可が必要とされています。一方で、がん具煙火(おもちゃ花火)の販売には許可が不要になっているなど、種類によって規制の内容が違うんです。
花火の事故は、花火工場での製造過程での事故と、花火大会での実演時の事故とに大きく分けられます。統計が残っているのは1950年代頃からで、当時は花火工場の爆発事故が多くて、毎年10人以上の死者が出ていた時代もありました。
こうした事故を受けて、花火製造に関する規制は徐々に厳しくなっていきました。たとえば2003年に鹿児島県で起きた花火工場爆発事故では10人が死亡し、この事故をきっかけに法令が改正されて、雷薬などの配合工程における導電性器具の使用義務などが定められました。
現代の花火大会では、観客の安全を守るための群衆事故対策も大事な課題になっています。2001年の明石花火大会での歩道橋事故のように、花火そのものの危険性だけでなく、たくさんの観客が集まることによる事故防止にも、運営側の対策が求められているんです。
世界における花火生産の中心地の変化
21世紀の現代において、中華人民共和国は世界の花火生産量の約9割を占めると推定されていて、最大の輸出国にもなっています。「四大花火の里」と呼ばれる江西省万載県・上栗県や湖南省瀏陽市・醴陵市といった地域にメーカーが集まっていることが知られています。
かつて日本の花火はおもちゃ花火を含めて海外に多く輸出されていましたが、2010年代以降は中国からの輸入量の方が多くなり、日本からの輸出は大きく減少したと報告されています。当時の記録によれば、多くの日本の花火業者は地元に根付いた零細・中小企業で、技術を親から子へと伝える世襲制をとっていました。
花火の生産構造がグローバル化するなかで、伝統的な技術を継承する日本の花火師さんたちの存在は、独自の文化的価値を持つものとして注目されています。三河地方(愛知県東部)など、徳川家にゆかりのある地域を中心に、今も花火製造業や問屋が多く集まっていることも、こうした歴史の名残といえそうです。
このように、花火の生産という側面から見ても、世界の花火の歴史は時代とともに大きく構造を変えてきました。
まとめ|花火の歴史を徹底解説|起源から日本の花火文化、現代までの歩み
最後に、この記事で紹介した花火の歴史のポイントをおさらいしておきますね。
- 花火の起源は古代中国の狼煙(のろし)にあるとされ、軍事的な合図として使われた硝石が火薬発明のきっかけになったと考えられている
- 黒色火薬の発明時期には諸説があって正確には分かっていないが、中国の南宋時代には爆竹に近い花火が市場に出ていたとされる
- 火薬と花火の技術はシルクロードを経て13世紀ごろにイスラム諸国へ伝わった
- 観賞用の花火は14世紀後半のイタリア・フィレンツェで誕生し、宗教行事や王侯貴族の祝祭で使われるようになった
- 日本最古の花火の記録は1447年の公家・万里小路時房の日記『建内記』に見ることができる
- 1543年の種子島への鉄砲伝来とともに火薬が日本にもたらされたが、当初は戦争の道具として使われていた
- 江戸時代には1659年に鍵屋初代弥兵衛が玩具花火を売り出し、1810年には玉屋が暖簾分けして誕生した
- 江戸では町人花火と武家花火(御三家花火など)がそれぞれ発展し、今の花火技術の基礎を形作った
- 明治時代に海外から化学薬品が輸入されて「洋火」が登場し、花火に多彩な色彩がもたらされた
- 戦後は1948年に隅田川の花火大会が復活し、現代では中国が世界の花火生産の中心地になっている
花火の歴史を知ると、夏の夜空に咲く一発一発の花火に、なんだかいつもより深い気持ちで向き合えるんじゃないでしょうか。





