
『あなたに安全な人』のあらすじ(ネタバレあり)です。『あなたに安全な人』未読の方は気を付けてください。ガチ感想も書いています。
本作は、新型コロナウイルスとおぼしき感染症が蔓延する現代を舞台に、過去に「死」に関わった男女二人の奇妙な共同生活を描いています。元教師の工藤妙と、便利屋を営む忍。それぞれが抱える心の闇が、ある出来事をきっかけに交錯し、物語は思わぬ方向へと展開していきます。
妙は、両親を亡くした東北の家でひっそりと暮らしています。過去に生徒の死に関与したらしい彼女は、感染症への恐怖からか、人との接触を避けるように生きています。そんな彼女の日常に、ある日、浴室の排水口のつまりを直すために便利屋の忍が現れます。
忍もまた、元警備会社社員として、ある女性の死に関わった過去を抱えています。兄夫婦に遠慮しながら便利屋を始めた彼も、貧乏な暮らしの中で、過去の出来事に縛られているようです。二人の出会いは、互いの心の傷をえぐり出すかのように、物語を深めていきます。
落書き事件をきっかけに、妙と忍の関係はさらに密接になります。妙の自宅に「人殺し」と書かれた落書き。それは、彼女の過去の出来事を暗示しているかのようです。忍は、落書きを消す手伝いをすることになり、二人は互いの秘密に触れていくことになります。
そして、奇妙な共同生活が始まります。それぞれの過去が少しずつ明かされていく中で、彼らの心境や行動にも変化が訪れます。はたして、彼らは互いに「安全な人」となることができるのでしょうか。
『あなたに安全な人』のあらすじ(ネタバレあり)
工藤妙は、亡き両親の家で孤独に暮らす46歳の元教師です。世間では感染症が広がり、人々が怯える中で、妙は親の遺産を頼りに、最低限の外出で生活を送っています。ある日、浴室の排水口が詰まり、彼女は便利屋の忍を呼びました。料金とともに、先日、妙の近所に引っ越してきたものの、程なくして自殺した本間秀樹が挨拶に配ったという煎餅の詰め合わせを忍に渡します。本間は東京から東北に移住してきましたが、感染症への不安から周囲に疎外感を覚え、命を絶ったのでした。妙の元には、かつて彼女が教えていた生徒、及川陸の父親から連絡が入ります。陸の死の件で会いたいという父親の申し出を、妙は拒否しました。
一方、忍は33歳の元警備会社社員です。過去に警備の仕事で人を怪我させたことがあり、現在は東北の実家に戻り、兄夫婦に遠慮しながら便利屋を営んでいます。しかし依頼は少なく、貧しい日々を送っています。そんな彼の元に、妙から「不審な男を追いはらってほしい」という依頼が舞い込みました。
妙からの連絡を受け、深夜に妙の家を訪れた忍は、特に怪しい人物は見つけられませんでした。謝礼を受け取った忍は、手の火傷の治療の申し出を断り、電車がなくなったため無人駅の駅舎で野宿することになります。
翌日、忍は姪の瑠奈に脅されます。瑠奈は、忍が沖縄での警備中に女性を突き飛ばし、その女性が後に脳障害で亡くなったという動画を入手していました。瑠奈は動画の拡散を条件に5万円を要求しますが、忍は瑠奈に火傷の手当てをさせ、代わりに5千円を渡すと約束します。しかし、手当てが終わって謝礼の入った封筒がないことに気づき、駅でホームレスに盗まれたのではないかと疑います。お金を受け取れなかった瑠奈は父親に泣きつき、忍は2週間の外出禁止を言い渡され、家を出る決心をします。
しばらくして、妙の車と塀に「人殺し」と落書きされてしまいます。妙は陸の父親の仕業ではないかと疑います。父親は、陸の死が妙の責任だと思い込んでいました。妙は、便利屋の忍に落書きを消してもらおうと考えます。
ファミレスで忍と待ち合わせた妙は、落書きが家庭用の洗剤や除光液で落とせることを忍から聞きます。二人は妙の家に戻りますが、妙は突然、「人殺し」の落書きを忍に見られたくないと感じ、自分で落書きを消すことにします。その間、忍を外で待たせます。
落書きを消しながら、妙は陸のことを思い出します。陸は泳ぎが得意ではないにもかかわらず、従妹たちと海に入って溺死したのです。父親は陸がいじめを苦に自殺したと考え、それを防げなかった教師である妙の責任を問い詰めていました。しかし妙は、自分には責任はないと考えています。落書きを消し終えた妙は、今夜野宿するという忍を家に泊めてやることにしました。
シャワーを浴びた後、部屋に入ると、妙が用意してくれた夜食のお菓子が置いてありました。しかしそれだけでは足りず、忍は妙がシャワーを浴びている隙に台所に入り、食べ物をくすねます。その際、食器棚の奥に茶封筒があるのを見つけ、これもくすねてしまいました。部屋に戻って封筒を開けると、それは陸からの手紙でした。夏休み前に忍先生に送られた、最初で最後の手紙だと書かれていました。
夜中、妙は誰かが家のそばまで来て、立ち去ったと言います。本間が住んでいたクリーニング店の2階が怪しいと睨んだ二人は、一緒に調べてみましたが、無人でした。しかし、その部屋には本間が挨拶用に配った煎餅の詰め合わせが残されており、それを見た忍は、以前妙から受け取ったものが本間の贈答品であることを知ります。
妙は11年前の夏休み前に受け取った陸からの手紙のことを思い出します。当時、心配になり陸の家に電話をかけましたが、連絡がつきませんでした。そのうち、なんでもないことだと自分に言い聞かせ、連絡を取ろうとするのをやめてしまったのでした。陸の父親があれ以来連絡してこないのは、現在危篤か、絶命したのかもしれないと都合の良いように考えます。
妙は忍を家に泊めてやりました。忍は疲れきっていたのか、何時間も眠り続けます。二、三日、眠りたいだけ寝させた後、妙は忍に、しばらくの間同居させてあげる代わりに、先日のような落書きをされないように、日中見張っていてほしいと依頼します。
こうして二人の奇妙な同居生活が始まりました。食事は妙が用意します。忍は妙と顔を合わせないようひっそりと暮らしつつ、昼間は外で見張りをします。一度、妙がひどくお腹を壊し、次に忍が下痢をしました。治った忍は、電子レンジを無断で使い、しかもコードを抜き忘れたため、妙に咎められます。それ以来、忍の食生活はどんどん変わり、次第に食べなくなっていきました。
そんなある日、妙は忍を誘って、亡くなった本間のために、クリーニング店の空き店舗に花を手向けに行きます。忍は妙の後ろからついてくるようです。妙は後ろを振り向きません。いまや忍は、仙人かなにかのような不思議な存在へと変貌していたのでした。
『あなたに安全な人』の感想・レビュー
木村紅美さんの『あなたに安全な人』を読んだ率直な感想を申し上げますと、読み終えた後もずっと心の中に澱のように残る、得体のしれない不安と、ある種の静かな諦念が、本作の大きな魅力だと感じました。
物語の冒頭から、新型コロナウイルス感染症を思わせるパンデミックの状況が描かれ、私たちの現実と地続きの不安感が、読者の心を掴んで離しません。この冒染が、物語全体を覆う閉塞感と不穏な空気感をより一層際立たせています。人々が感染症に怯え、互いに距離を取り、疑心暗鬼になる様は、まさに現代社会の縮図のようです。
主人公である工藤妙と、便利屋の忍。この二人の人物造形が、まず非常に興味深く、そして同時に読者を惑わせる存在です。妙は元教師でありながら、過去に生徒の死に関わったという重い事実を抱えています。しかし、その具体的な内容はすぐには明かされず、読者は妙の曖昧な態度や言動から、何があったのかを推し量るしかありません。この「語られない」部分が、妙という人物に深い陰影を与え、彼女の孤独や内面の葛藤をより一層深く感じさせます。
一方の忍もまた、元警備員として女性の死に関わった過去を持つ男です。彼の行動はどこか掴みどころがなく、時に自暴自棄のようにも見え、また時に妙の行動を静かに見守る保護者のようにも感じられます。彼もまた、過去の出来事から逃れられないでいるのですが、妙とは異なる形でその苦悩が表現されています。この二人の距離感、そして互いの秘密を抱えながらも、なぜか惹かれ合い、寄り添っていく過程が、本作の大きな見どころと言えるでしょう。
物語が進むにつれて、二人の抱える過去の断片が少しずつ、本当に少しずつですが、提示されていきます。しかし、一般的なエンターテインメント小説のように、全ての謎が鮮やかに解き明かされるわけではありません。むしろ、読み進めるごとに新たな疑問が生まれ、既視感のある不安が積み重なっていくような感覚を覚えます。この「全てを語らない」語り口が、読者の想像力を掻き立て、行間から多くのものを読み取らせようとする作者の意図を感じさせます。
特に印象的だったのは、妙の自宅に書かれた「人殺し」の落書きです。これは、彼女の過去の出来事が、外部から彼女を蝕もうとしているかのような象徴的な出来事です。この落書きを消す際の妙の行動、そして忍とのやり取りは、彼女が自身の過去とどのように向き合っているのか、あるいは向き合えていないのかを浮き彫りにします。
そして、クリーニング店の2階に残された、亡くなった本間の煎餅の詰め合わせ。これは、本間という人物の孤独と悲劇を象徴するだけでなく、妙と忍という、本来であれば決して交わることのなかった二人の人生が、どのようにして交錯し、奇妙な繋がりを持つに至ったのかを暗示しています。この小さな発見が、物語に新たな深みを与えています。
二人の奇妙な共同生活が始まってからは、物語はさらに静謐な空気感を帯びていきます。互いに干渉しすぎず、しかし互いの存在を確かに感じながら、それぞれの生活が営まれていく様子は、ある種の緊張感と同時に、奇妙な安らぎも感じさせます。特に、忍の食生活の変化は、彼の内面的な変化、あるいは彼が置かれた状況の変化を示唆しているようで、読者に様々な想像を促します。彼がまるで仙人のように変化していく様は、現実離れしているようでいて、しかし妙との関係性の中で生まれた必然のようにも感じられます。
『あなたに安全な人』は、決して爽快な読後感をもたらす作品ではありません。むしろ、心の中に静かな波紋を残し、考えさせる余地を多く残す作品です。しかし、その不安感や未解決感こそが、本作の魅力なのだと私は考えます。現代社会が抱える孤独や疎外感、そして過去から逃れられない人間の業が、静かに、しかし深く描かれています。
この作品は、明確な答えやカタルシスを求める読者には、もしかしたら物足りなく感じられるかもしれません。しかし、心の奥底に潜む感情の機微や、人間の内面的な葛藤をじっくりと味わいたい読者には、深く響くことでしょう。読み終わった後も、登場人物たちのその後を想像せずにはいられません。彼らが本当に「安全な人」を見つけることができたのか、あるいは、見つけることができたとして、それはどのような形であったのか。その問いは、読者の心の中に静かに問いかけられます。
現代社会における「安全」とは何か、そして「人」との繋がりとは何かを、深く考えさせられる一冊です。木村紅美さんの繊細な筆致と、読者の想像力を刺激する巧みな構成が光る作品であり、文学作品としての奥深さを存分に感じさせてくれることでしょう。
まとめ
『あなたに安全な人』のあらすじ(ネタバレあり)を箇条書きでまとめます。
- 工藤妙は、元教師で、過去に生徒の死に関わったらしい46歳の女性です。
- 忍は、元警備会社社員で、過去に女性の死に関わったらしい33歳の男性です。
- 妙は浴室の排水口のつまりで便利屋の忍を呼び、二人は出会います。
- 妙の自宅の車と塀に「人殺し」と落書きされ、妙は忍に消去を依頼します。
- 忍は、かつて自分が関わった事件の動画を姪に握られ、家を出る決心をします。
- 妙は陸の父親から連絡を受けますが、陸の死に関する責任を拒否します。
- 妙は忍を自宅に泊め、二人の奇妙な共同生活が始まります。
- 忍は妙が隠していた陸からの手紙を見つけ、陸の死の真相を知ります。
- 二人は、本間秀樹が住んでいた空き店舗のクリーニング店を訪れます。
- 共同生活の中で忍の食生活が変化し、最終的に仙人のような存在へと変貌します。