
「あの子の考えることは変」のあらすじ(ネタバレあり)です。「あの子の考えることは変」未読の方は気を付けてください。ガチ感想も書いています。
本谷有希子さんが2009年に発表した「あの子の考えることは変」は、私たちの日常に潜む「変」な感覚を鮮やかに描き出した一冊ですね。この作品は、まさに現代を生きる若い女性たちの内面と、彼女たちが直面する社会の不条理を、独特の視点から切り取っています。
主人公である巡谷(めぐりや)と日田(にった)の二人の女性が、それぞれの「変」さを抱えながら東京という都市で生きる姿は、読者に深い共感と、時にはクスリと笑ってしまうような共感を誘います。私たちが普段意識しないような些細な出来事や心の動きが、本谷さんの手にかかると、なぜこんなにも鮮やかに、そして深く胸に響くのか。それは、彼女が紡ぎ出す言葉の一つ一つに、人間が抱えるどうしようもない感情や、見過ごされがちな真実が込められているからでしょう。「あの子の考えることは変」は、ただの物語として読むだけでなく、自分自身の内側と向き合うきっかけを与えてくれる、そんな力を持った作品です。
高校時代から際立ってスタイルが良く、異性との関係も奔放だった巡谷と、23歳になってもまだ恋愛経験がない日田は、同じ故郷出身という縁で東京で共同生活を送っています。巡谷はジェラートショップでアルバイトをするフリーターですが、日田はエッセイストを目指し、ひたすら執筆活動に没頭する毎日です。
二人は、それぞれの「変」さを抱えながら、東京での生活を続けます。巡谷のバイト先の世話焼きな同僚、そしてスランプに陥った映画脚本家など、個性豊かな人々と出会い、別れを繰り返します。
ある日、巡谷はバイトを突然辞め、自宅の掃除に没頭し始めます。一方、日田は隣人の物音に異常なまでに敏感になり、「ゲシュタポ」とあだ名をつけて恐れるようになります。
夜中にこっそりと弁当を買いに出かける日田、イビキを録音して恋人の本命彼女の部屋に隠す巡谷。二人の「変」な行動は、それぞれが抱える寂しさや不安、そして東京という場所での居場所探しを象徴しているかのようです。
そして、物語の終盤、二人は真夜中に神田川沿いの桜並木を訪れます。日田は目の前の桜を梅の木だと言い張り、巡谷は彼女の「変」さに共感できないと心の中で思います。それでも、日田は隣にいる巡谷に感謝するのでした。
「あの子の考えることは変」のあらすじ(ネタバレあり)
本谷有希子さんの「あの子の考えることは変」は、東京という大都市でひっそりと暮らす二人の女性、巡谷とめぐりやと日田にったの共同生活を描いています。二人は高校時代の同級生ですが、当時特別親しかったわけではありません。巡谷は、高校を卒業後、何となく故郷を離れ、都内で独り暮らしを始めます。一方の日田は、エッセイストになるという明確な目標を持って上京してきました。
東京での新生活でなかなか友人ができなかった二人は、お互いに連絡を取り合うようになり、やがて高井戸の家賃が安いアパートで一緒に暮らすことを決めます。巡谷は8畳のフローリングの部屋、日田は6畳の角部屋の和室をそれぞれ使います。
巡谷はジェラートショップでアルバイトをしながら生計を立てていますが、日田は執筆活動に明け暮れ、これといった定職には就いていません。ある日、バイト中の巡谷の様子を冷やかしに訪れた日田は、アルバイト店員の田淵と打ち解け、無料でアイスクリームを貰います。
食べきれなかったアイスをこっそり捨てた日田は、タイムカードを押して従業員出口から出てきた巡谷と合流し、新宿へと向かいます。二人の生活は、一見するとごく平凡な日々に映りますが、その裏にはそれぞれの内面に抱える「変」さが垣間見えます。
新宿の東急ハンズで録音機能つきのブタのぬいぐるみを買い、駅前で日田と別れた巡谷は、吉祥寺に住む横ちんの家に向かいます。横ちんは、かつては新進気鋭のシナリオライターとして注目を集めていましたが、今では後輩たちに追い抜かれ、仕事は雑用ばかりです。
自信満々で書いた映画の企画がボツになるたびにやけ食いに走り、体重は増える一方です。横ちんには本命の彼女がいるため、巡谷はあくまでも食事の支度から夜の相手までをする「都合のいい女」でしかありません。
せっかくの二人きりの誕生日にもかかわらず、横ちんは巡谷が駅前のカフェで買ってきたケーキをホールごと食べ、早々と眠りこけてしまいました。巡谷は横ちんのイビキをぬいぐるみに録音し、洗面台の下にある本命彼女のお泊まりセットの中にこっそり隠します。あの獣のようなイビキを聞けば、彼女は横ちんと別れることを考えるだろう、と巡谷はひそかに企むのでした。
ジェラート屋のバイトを突発的に辞めてしまった巡谷は、自分の和室から台所にトイレ・風呂までを一心不乱に綺麗にし始めます。家にいる時間が増えたのに、日田とは顔を合わせる機会が減っていき、テレビ番組を流しっぱなしにして頭を空っぽにする巡谷。
以前は巡谷が料理をしているとちゃっかり自分の皿を用意し出した日田でしたが、最近は夜中にこそこそと出かけてはオリジン弁当を買って食べているようです。日田は、洋室と壁一枚を隔てた隣の住人を「ゲシュタポ」とあだ名で呼んでいました。
掃除機や洗濯機など必要不可欠な騒音に対しても、ゲシュタポは壁を殴りつけて怒りを露にします。異様なくらい物音がしないように息を潜めて生活する日田は、まるで密告者に怯えるアンネ・フランクのようです。
ゲシュタポが壁を殴るたびに謝り続けることに疲れ果てた日田は、押し入れから古いコンポを引っ張り出して録音しておいた「すいません」をエンドレスで再生することにしました。
巡谷と日田が同居している部屋はアパートの1階にあって、ブロック塀の向こうには一本の梅の木が生えていました。日田はこの木を桜と勘違いしていて、毎年花が咲くとサンダルで庭に出ては携帯の写メに収めています。
本物の桜を見せてあげたい巡谷が、ある日の夜に日田を連れて行った先は神田川沿いの桜並木です。道中でいつもの弁当とペットボトルのお茶を買って、レンガ敷きの地面にチラシを敷いて座り込みました。
夜の闇に浮かぶ桜を、日田は梅の花だと言い張り譲りません。ピンクのつぼみが咲きかけている枝の向こうには、ダイオキシンで有名な杉並区の清掃工場の煙突が見えます。
日田の話ではダイオキシンによって人間の駄目なところが、潜在的な悪として引き出されてしまうそうです。日田の考えることは変で、一度だって巡谷は共感できたことはありません。
これから先も男性とお付き合いすることはないであろう日田でしたが、今この瞬間に側にいてくれる巡谷に感謝をするのでした。二人の女性が抱えるそれぞれの「変」さが、東京という舞台で織りなす、どこかおかしく、どこか切ない物語です。
「あの子の考えることは変」の感想・批評
本谷有希子さんの「あの子の考えることは変」を読み終えた時、まず感じたのは、人間の内面に潜む「変」さへの深い洞察でした。この作品は、私たちが普段、誰にも見せないような、あるいは見て見ぬふりをしてしまうような、どうしようもない感情や思考を、まさに「あの子の考えることは変」というタイトルが示す通り、露わにしていきます。主人公である巡谷(めぐりや)と日田(にった)の二人、彼女たちが抱える「変」な部分が、私たち自身の奥底に眠る「変」な部分に、そっと触れてくるような感覚に陥ります。
物語は、高校時代の同級生である二人が、東京で共同生活を送る中で展開されます。スタイルが良く、異性関係も奔放だった巡谷と、23歳になっても経験がない日田。この対照的な二人の間に生まれる、どこか噛み合わない会話が、この作品の大きな魅力の一つです。Gカップだけが取り柄だと自虐する巡谷と、自らが放つ獣のような体臭が気になって仕方がない日田。彼女たちのやり取りは、時にクスリと笑いを誘い、時に深く考えさせられます。彼女たちの会話は、まるで漫才を見ているかのような軽妙さがありながらも、その根底には、現代社会を生きる若い女性たちが抱える不安や焦燥、そして見えない孤独が横たわっているのを感じます。
舞台となる杉並区高井戸のノスタルジックな街並みや、二人が暮らすおんぼろアパートの共同生活の風景も、この作品に独特の脱力感を与えています。都会の喧騒から少し離れた、どこか時間がゆっくりと流れるような高井戸の描写は、二人の「変」な日常をより一層際立たせています。特に、巡谷がバイトを辞めてから、ひたすらアパートを掃除する場面は印象的でした。それは、彼女が抱える漠然とした不安や、自分自身の存在意義を見つけようとする行為のようにも見えました。また、日田が隣人の物音に過剰に反応し、「ゲシュタポ」と名付けて恐れる様子は、現代社会における人間関係の希薄さや、隣人との距離感の難しさを象徴しているかのようです。
「のたれ死ぬ時は迷惑かけずに、アパート以外でのたれ死ぬ」という巡谷のセリフは、地方から東京へと単身やってきた女の子の、ある種の潔さを感じさせます。これは、彼女が抱える自立心と、同時に都会で生きることの厳しさ、そして自分の人生を自分で切り開いていこうとする強い意志の表れだと思いました。このセリフには、多くの読者が共感できるのではないでしょうか。自分の人生は自分で責任を持つという覚悟が、この短い言葉の中に凝縮されています。
物語のクライマックス、真夜中の神田川沿いの桜並木を巡谷と日田が訪れる場面は、この作品のハイライトとも言えるでしょう。夜の闇の中に浮かび上がる桜の静謐さと、ダイオキシンを吐き出す巨大な清掃工場の煙突の猥雑さとのコントラストは、まさに本谷有希子さんならではの鋭い感性が光る描写です。日田が目の前の桜を梅の木だと言い張り、巡谷がその「変」さに共感できないと心の中で思う場面は、二人の間の認識のズレと、それでもなお共に存在する二人の関係性を象徴しています。
日田の「ダイオキシンによって人間の駄目なところが、潜在的な悪として引き出されてしまう」という奇妙な持論は、彼女の独特な世界観を如実に表しています。巡谷は、日田の考えること全てに共感できないと心の中で語りますが、それでも二人は共に夜桜を見上げ、静かに時間を共有します。この、共感できないけれど共にいる、という関係性が、この作品の持つ普遍的なテーマだと感じました。私たちは、全ての人と分かり合えるわけではありません。しかし、それでも、私たちは誰かと共に生きている。その現実が、この作品には描かれています。
「あの子の考えることは変」は、ただ単に個性的なキャラクターの日常を描いた作品ではありません。それは、現代社会で生きる私たち自身の内面を映し出す鏡のような作品です。私たちが普段、誰にも見せないような「変」な部分、どうしようもない感情、漠然とした不安、そして誰にも理解されない孤独。それらが、この作品の中には確かに存在します。そして、それらを肯定的に受け入れることの重要性も示唆しているように感じました。
本谷さんの文章は、時に辛辣で、時にユーモラスでありながら、常に人間への深い愛情と、鋭い観察眼に満ちています。彼女は、登場人物たちの「変」な部分を笑い飛ばすだけでなく、その奥にある寂しさや切なさ、そして人間としての尊厳を、そっとすくい取って見せてくれます。だからこそ、読者は彼女の作品に強く惹かれるのでしょう。
この作品を読んで、私は、自分自身の「変」な部分を改めて見つめ直すきっかけを得ました。そして、完璧ではない自分を受け入れることの重要性を再認識させられました。私たちは皆、どこか「変」な部分を抱えている。そして、その「変」な部分こそが、私たちを個性豊かな存在たらしめているのだと。
「あの子の考えることは変」は、一度読んだだけでは消化しきれないほどの深い問いかけを投げかけてくる作品です。何度も読み返すことで、新たな発見があるでしょう。そして、読むたびに、自分自身の「変」な部分への理解が深まるかもしれません。現代社会の閉塞感の中で、自分らしく生きることの意味を問い直したい全ての人に、ぜひ読んでほしい一冊です。
まとめ
「あの子の考えることは変」のあらすじ(ネタバレあり)を箇条書きでまとめます。
- 高校の同級生である巡谷と日田は、東京で家賃の安いアパートで共同生活を始める。
- 巡谷はジェラートショップでフリーターとして働き、日田はエッセイストを目指し執筆活動に没頭する。
- 巡谷はバイト先の同僚やスランプ中の脚本家など、個性豊かな人々と出会いを繰り返す。
- 巡谷は、都合のいい女として扱われる恋人(シナリオライターの横ちん)のイビキを録音し、本命彼女の部屋に隠して仕返しをする。
- 巡谷は突発的にバイトを辞め、自分の部屋や水回りをひたすら掃除し始める。
- 日田は、隣人の物音に過敏になり「ゲシュタポ」と名付け、恐怖を感じるようになる。
- 日田は、隣のゲシュタポの壁ドンに対抗するため、「すいません」と録音した音声をエンドレスで流す。
- 巡谷は、梅の木を桜だと勘違いしている日田に、本物の桜を見せるため真夜中の神田川沿いの桜並木へ誘う。
- 日田は、目の前の桜を梅の木だと言い張り、ダイオキシンが人間のダメな部分を引き出すという持論を語る。
- 巡谷は日田の考えることは理解できないが、日田は隣にいる巡谷に感謝する。