
「三度目の恋」の物語の筋道(物語の核心に触れています)です。「三度目の恋」をまだお読みでない方はご注意ください。心からの深い気持ちも綴っています。
本作の主人公である梨子は、幼い頃からナーちゃんこと生矢に焦がれるような恋心を抱いています。成長し、紆余曲折ありながらも二人は結婚しますが、生矢の奔放な女性関係は梨子を深く悩ませるのでした。そんな日々の中、梨子は小学校時代に心の支えだった用務員の高丘さんと偶然再会します。高丘さんから「魔法」の存在を教えられた梨子は、やがて不思議な夢を見るようになります。
その夢の中で、梨子は江戸時代のおいらん、そして平安時代の女房として、全く異なる人生を体験します。それぞれの時代で、梨子は高丘さんの面影を持つ人物と出会い、新たな形の恋を経験することになるのです。夢と現実を行き来する中で、梨子は夫である生矢との関係性や、自身の生き方について深く見つめ直していきます。
夢の世界での経験は、現実の梨子にも影響を与え、彼女は少しずつ変化し、成長していきます。物語の終わりでは、生矢への一度目の恋、そして夢の中の人物(高丘さんの面影を持つ)への二度目の恋を経た梨子が、新たな「三度目の恋」への期待を胸に、未来へ向かって歩き出す姿が描かれます。この物語は、恋の多様な形と、時を超えて繋がる魂の軌跡を幻想的に描き出しているのです。
「三度目の恋」のあらすじ(ネタバレあり)
梨子は、幼い頃から従兄の生矢(ナーちゃん)に対し、燃えるような激しい恋心を抱いていました。内向的で繊細な梨子は、周囲に馴染めない小学生時代、用務員室で働くミステリアスな高丘さんと出会い、彼を唯一の心の拠り所とします。時が流れ、高校生になった梨子は生矢と結ばれ、やがて結婚。しかし、生矢の女性関係は結婚後も絶えず、梨子は深い孤独と苦悩を抱えることになります。特に、生矢が会社関係の女性と本気の恋に落ちたことは、梨子に大きな衝撃を与え、生きる気力さえ失いかけました。
そんな失意の底にいた34歳の梨子は、旅の途中の高丘さんと運命的な再会を果たします。高丘さんから「魔法」を使えると告げられた梨子は、彼に導かれるようにして、不思議な夢の世界へと足を踏み入れることになります。最初の夢で、梨子は江戸時代の吉原に売られた農村の娘となり、「春月」という名のおいらんとしての人生を歩みます。そこで梨子は、高丘さんの面影を持つ侍・高田と出会い、激しい恋に落ち、駆け落ちを試みるも失敗に終わるのでした。
次に梨子は、棟児という男の子を妊娠・出産し、育児の合間に見る夢の中で、平安時代の姫に仕える女房となります。その世界では、姫の夫である在原業平にナーちゃんの面影を、そして業平の叔父である僧・真如に高丘さんの面影を見出します。梨子は真如に強く惹かれますが、二人が結ばれることはありませんでした。夢の中で様々な女性の人生を経験し、業平に愛される体験もする梨子。やがて現実世界で高丘さんと再会し、互いに淡い恋心を抱いていることを確認し合いますが、二度と会わないことを知りながら別れます。
一度目のナーちゃんへの恋、そして夢と現実で交錯した高丘さんへの二度目の恋を終えた梨子は、大学時代の恩師の秘書として働き始めます。様々な経験と感情の変遷を経て、梨子は強くしなやかに成長し、新たな「三度目の恋」が訪れることを予感しながら、前向きに生きていくのでした。この物語は、時を超えた魂の結びつきと、恋を通じて自己を見つめ直す女性の姿を、幻想的かつ繊細に描いています。
「三度目の恋」の感想・レビュー
川上弘美さんの「三度目の恋」を読み終えた今、心が静かな感動と、どこか不思議な余韻に包まれています。この物語は、単なる恋愛物語という枠には収まらない、人の心の奥深くにある普遍的な感情や、時を超えた魂の繋がりを描き出した、非常に味わい深い作品だと感じました。
まず、主人公である梨子の人物像がとても印象的です。幼い頃から一途にナーちゃんを想い続ける姿は、純粋でありながらも、どこか危うさを秘めています。彼女の内面世界の豊かさ、そして現実と夢の間を揺れ動く繊細な感受性が、物語全体に独特の雰囲気を与えています。ナーちゃんへの恋は、梨子の人生そのものを規定しているかのように見えましたが、高丘さんとの出会い、そして「魔法」という不思議な体験を通して、彼女の世界は大きく広がっていきます。
ナーちゃんという人物もまた、非常に魅力的でありながら、捉えどころのない存在です。多くの女性を惹きつける彼の性質は、梨子にとって喜びであると同時に、絶え間ない苦悩の原因ともなります。しかし、物語が進むにつれて、梨子のナーちゃんに対する感情も変化していくのが見て取れます。それは、諦めや許しといった単純なものではなく、もっと複雑で、深い理解に基づいた受容のようなものかもしれません。
そして、高丘さん。彼こそが、この物語の鍵を握る、最もミステリアスな存在と言えるでしょう。梨子の小学校時代の用務員であり、大人になって再会した際には「魔法」を教える存在。夢の中では、江戸時代の侍・高田として、また平安時代の僧・真如として現れ、梨子と時を超えた恋を経験します。高丘さんは、梨子にとって、現実世界の苦悩から逃れるための避難場所であったのかもしれませんし、あるいは、彼女自身も気づいていなかった新たな自己を発見するための触媒だったのかもしれません。彼との関係は、ナーちゃんとの激しい恋とは対照的に、静かで、穏やかで、それでいて魂の深くまで響くようなものでした。二人が交わす言葉は少なくても、そこには確かな心の繋がりが感じられます。
「三度目の恋」というタイトルが示唆するように、この物語は「恋」というテーマを多角的に掘り下げています。梨子のナーちゃんへの「一度目の恋」は、情熱的で、時に盲目的で、依存にも似た感情を伴うものでした。一方、高丘さん(あるいはその面影を持つ夢の中の人物たち)への「二度目の恋」は、より精神的で、魂の救済や成長を促すような性質を持っていたように思います。そして、物語の最後に示唆される「三度目の恋」。それは、これまでの二つの恋とはまた異なる、成熟した、自立した個人として迎える新たな関係性なのかもしれません。読者は、梨子と共に、その「三度目の恋」がどのようなものになるのか、静かな期待を抱かされるのです。
この物語の大きな魅力の一つは、夢と現実が巧みに交錯する幻想的な構成です。梨子が見る夢は、単なる逃避ではなく、彼女が自己を再構築し、新たな視点を得るための重要なプロセスとなっています。江戸時代のおいらん・春月としての人生では、当時の過酷な状況の中で生きる女性の強さや、現代とは異なる恋の形に触れます。春月が高田(高丘さんの面影を持つ)に抱く激しい恋情と、その悲しい結末は、梨子の心に深い刻印を残します。また、平安時代の女房としての経験では、宮廷の雅やかな雰囲気の中で繰り広げられる複雑な人間関係や、伊勢物語の世界とリンクするような恋愛模様を体験します。これらの夢の中での経験は、現実世界の梨子に影響を与え、彼女の価値観や人間関係に対する理解を深めていきます。
特に、伊勢物語という古典文学がモチーフとして巧みに織り込まれている点は、物語に深みと奥行きを与えています。在原業平という稀代の色男は、ナーちゃんや高丘さんと重ね合わされ、時代を超えて繰り返される恋の普遍性を感じさせます。古典の世界観が現代の物語と響き合うことで、読者は時空を超えた壮大なドラマの中にいるような感覚を覚えるでしょう。
川上弘美さん独特の文体も、この物語の魅力を際立たせています。淡々としていながらも、どこか温かみのある筆致は、登場人物たちの繊細な心の機微を巧みに捉えています。言葉の選び方一つひとつに細やかな配慮が感じられ、読者はその美しい文章に引き込まれ、物語の世界に深く没入することができます。派手な出来事が起こるわけではありませんが、日常の中に潜む小さな奇跡や、心の奥底で静かに燃える情念のようなものが、静謐な筆致で描き出されています。
この物語を読み解く上で、「魔法」とは何だったのか、という問いは避けて通れません。それは文字通りの超自然的な力だったのか、それとも梨子の豊かな内面世界が生み出した幻想だったのか。あるいは、高丘さんという存在そのものが、梨子にとって「魔法」のようなものだったのかもしれません。明確な答えは示されませんが、その曖昧さがかえって物語の魅力を深めているように感じます。魔法の正体が何であれ、それが梨子にとって救いとなり、成長の糧となったことは間違いありません。
また、通子先生の存在も梨子にとって大きな意味を持っていたように思います。彼女の「梨子の依って立つところがすかすかで、その地面の下にいろいろなものが透けて見えてしまう」という言葉は、梨子の本質を鋭く捉えています。そして、梨子が新たな一歩を踏み出す際に、そっと背中を押してくれる存在でもありました。
「三度目の恋」を読み終えて、私は「生きること」や「愛すること」について、改めて深く考えさせられました。人は誰かを愛することによって自分自身を知り、傷つきながらも成長していくのかもしれません。そして、人生には様々な形の愛があり、それぞれに価値があるのだということを、この物語は教えてくれます。梨子が経験した二つの恋は、決して無駄ではなく、彼女を豊かにし、次のステージへと導くための大切なステップだったのでしょう。
この作品は、読後すぐに明確な答えが見つかるようなものではないかもしれません。しかし、じっくりと時間をかけて味わい、自分自身の経験と照らし合わせながら読み解いていくことで、より深い感動と気づきを得られるのではないでしょうか。梨子のこれからの人生、そして訪れるであろう「三度目の恋」に思いを馳せながら、私もまた、日々の生活の中で小さな光を見出し、前を向いて生きていきたい、そんな気持ちにさせてくれる作品でした。川上弘美さんの描く、静かで、美しく、そしてどこか切ない世界観に、改めて魅了された一冊です。
まとめ
川上弘美さんの「三度目の恋」は、主人公・梨子が生矢(ナーちゃん)への一途な初恋、そして小学校時代の恩人・高丘さんとの再会と彼が教える「魔法」を通じて体験する夢の中での二度目の恋を経て、新たな「三度目の恋」へと歩み出す姿を描いた物語です。江戸時代のおいらん、平安時代の女房といった異なる時代の人生を夢で生きることで、梨子は愛や人生について深く見つめ直していきます。
この作品は、夢と現実が交錯する幻想的な世界観の中で、恋の多様な形、そして時を超えた魂の繋がりを繊細な筆致で描き出しています。読者は梨子の心の軌跡を辿りながら、愛とは何か、生きるとは何かという普遍的なテーマについて深く考えさせられることでしょう。読後には、静かな感動と不思議な余韻が残り、梨子の未来にそっとエールを送りたくなるような、味わい深い一作です。