今から7年ほど前の話なんです。
俺は大学を卒業したものの、就職も決まっていない有様だったんですよね。
生来、追い詰められないと動かないタイプで、テストも一夜漬けばかりの人間だったんです。
「まあ何とかなるだろう」とお気楽に自分に言い聞かせて、バイトをだらだら続けていました。
そんな年の真夏、悪友のカズヤ(仮名)と家でだらだら話していたら、なぜか「ヒッチハイクで日本を横断しよう」なんて話に飛んで、そこから計画に熱中することになったんです。
その前に、この悪友の紹介を簡単にしておきたいんですよ。
このカズヤも俺と同じ大学で、入学した時期に知り合いました。
コイツはとんでもない女好きで、頭と下半身は別だろっていう典型みたいなやつなんです。
ただ、根は底抜けに明るくて裏表もない男なので、女関係でトラブルは抱えても、男友達は多かったんですよね。
そんな中でも、カズヤは俺と一番ウマが合ったんです。
そこまで明朗快活じゃない俺とは、ほぼ正反対の性格なのに、なんでか噛み合うんですよね。
ヒッチハイクの計画に話を戻します。
計画といってもずさんなもので、まず北海道まで空路で行って、そこからヒッチハイクで地元の九州に戻ってくる、っていうだけの計画だったんです。
カズヤは「通った地方の、最低でも一人の女と合体する!」なんて、女好きならではの下世話な目的もあったみたいなんですよ。
まあ俺も、旅の楽しみだけじゃなく、そういう期待がゼロだったかと言われたら嘘になるんですけどね。
カズヤは長髪を後ろで束ねた、一見バーテン風の優男で(実際クラブでバイトしていたんです)、コイツとナンパに行って良い思いをしたことが確かにあったんですよ。
そんなこんなで、バイトの長期休暇申請をして(俺はちょうど別のバイトを探すつもりもあったので辞めて、カズヤは休暇をもらったんです)、北海道までの航空券、巨大なリュックに詰めた着替え、現金などを用意して、計画から3週間後には俺たちは機上にいたんです。
札幌に到着して昼食を済ませ、市内を散策しました。
慣れない飛行機のせいか俺は疲れて、夕方にはホテルに戻り、カズヤは夜の街に消えていったんですよね。
その日はカズヤは帰ってこず、翌朝ホテルのロビーで再会しました。
「昨夜はどうやら、ナンパした女と上手くいったみたいなんですよ」とでも言いたげに、にやついて指で輪っかを作ってOKマークをしていたんです。
さあ、いよいよヒッチハイクの始まりなんです。
ヒッチハイクなんて二人とも人生で初めてで、さすがにウキウキしていました。
何日までにこの距離まで行く、みたいな綿密な計画はなくて、「行ってくれるとこまで」という大雑把さだったんですよね。
まあでも、そうそう止まってくれるものじゃなかったんです。
1時間ほど粘っても一向に止まらないので、俺たちはぐったりしながら、ああでもないこうでもないと喋っていました。
「昼より夜の方が止まってくれやすいんだろうな」なんて言っていたら、開始から1時間半後、ようやく最初の車が止まってくれたんです。
同じ市内までだったけど南下はするので、距離を稼げたのは稼げましたし、短くても嬉しいものなんですよね。
「夜の方が止まってくれやすいんじゃ?」っていう想像は、意外と当たりでした。
一番多かったのは長距離トラックで、距離も稼げるし、まず悪い人はいないし、かなり効率が良かったんです。
3日目にもなると俺たちも慣れてきて、長距離トラックのお兄さん用にはタバコ等のお土産、普通車の一般人には飴玉等のお土産、と勝手に決めてコンビニで事前に買っていました。
特にタバコは喜ばれたんですよね。
普通車に乗った時も、喋り好きなカズヤのおかげで車内はいつも笑いに満ちていました。
女の子2~3人組の車もあって、正直、良い思いをしたことも何度かあったんです。
4日目には本州に到達していました。
コツがつかめてきた俺たちは、その土地の名物に舌鼓を打ったり、一期一会の出会いを楽しんだりして、余裕も出てきていたんですよ。
銭湯を見つけてなるべく毎日風呂には入り、宿泊は2日に1度ネカフェに泊まると決めて、経費も節約していました。
ご好意でドライバーの家に泊めてもらうこともあって、その時は本当にありがたかったんです。
でも、二人そろって生涯トラウマになるだろう恐怖の体験が、出発から約2週間後、甲信地方の山深い田舎で起こったんですよね。
その日の夜は、2時間前に寂れた国道沿いのコンビニで降ろしてもらって以来、なかなか車が止まらず、加えて蒸し暑さがひどくて、俺たちはグロッキー状態だったんですよ。
暑さと疲労のせいか、俺たちは変なテンションになっていました。
「こんな田舎のコンビニに降ろされたんじゃ、たまったもんじゃないよな。これならさっきの人の家に無理言って泊めてもらえば良かったかなぁ?」とカズヤが言ったんです。
確かに先ほどのドライバーは、このコンビニから車で10分ほどの所に家があるらしいんですよね。
でも、どこの家か分かるはずもなく、言っても仕方ない話でした。
時刻は深夜12時を少し過ぎたところだったんです。
俺たちは30分交代で、車に手を上げるやつとコンビニで涼むやつに分かれることにしました。
コンビニの店長にも事情を説明したら、すごく気さくに言ってくれたんですよ。
「頑張ってね。最悪、どうしても立ち往生したら、俺が市内まで送ってやるよ」
こういう田舎の温かい人の心って、本当に沁みるんですよね。
それからさらに1時間半ほど過ぎても、車は一向につかまりませんでした。
というか、そもそもほとんど通らないんです。
カズヤも店長とかなり意気投合して、「いよいよ店長の好意に甘えるか……」と思っていた、その時だったんですよ。
1台のキャンピングカーが、コンビニの駐車場に停車したんです。
これが、忘れえぬ悪夢の始まりでした。
運転席のドアが開いて、年齢は60代くらいに見える男性が入ってきました。
服装が、カウボーイが被るようなつば広の帽子にスーツ姿という、妙にちぐはぐな格好だったんです。
俺はその時コンビニの中にいて、なんとなくその男の様子を見ていました。
買い物籠にやたら大量の絆創膏みたいなものを放り込み、コーラの1.5Lペットボトルを2本も入れていたんですよ。
男は会計中、立ち読みしている俺の方をじっと凝視してきました。
なんとなく気持ち悪くて、視線を感じながらも俺は無視して本を読んでいたんです。
やがて男は店を出ました。
そろそろ交代の時間なのでカズヤの所へ行こうとすると、駐車場でカズヤが男と話をしていたんですよね。
「おい、乗せてくれるってよ!」
どうやらそういうことらしかったんです。
俺は最初、あの男に気持ち悪さを感じていたんですけど、間近で見ると人の良さそうな普通のおじさんにも見えたんですよ。
疲労と眠気でほとんど思考が回らず、「アウトドア派(キャンピングカー)だから、ああいう帽子なのか」みたいな、よく分からない納得を自分にさせてしまったんです。
でも、キャンピングカーに乗り込んだ瞬間、しまったと思いました。
おかしいんです。
何が、と言われても「おかしいからおかしい」としか言えないんですけど、空気がもう変だったんですよね。
ドライバーには家族がいました。
もちろんキャンピングカーですし、中に同乗者がいる可能性は想像していたんです。
でも、そこで見た家族が、想像の方向を完全に飛び越えてきたんですよ。
父、ドライバーで60代くらい。
母、助手席に座る70代くらいに見える人。
そして双子の息子、どう見ても40過ぎの中年が二人。
人間って、予想していなかったものを見ると一瞬思考が止まるんですよね。
車内に入って目に飛び込んできたのは、まったく同じギンガムチェックのシャツ、同じスラックス、同じ靴、同じ髪型(頭頂ハゲ)、同じ姿勢で座る、同じ顔の双子の中年のおっさんだったんです。
カズヤも絶句していました。
いや、双子がいて、同じ格好をしていること自体は、別におかしくもないんです。
おかしくもないし悪くもないのに、あの異様な雰囲気だけは、実際その場で見ないと伝わらないんですよ。
「早く座って」と父に言われるまま、俺たちはその家族の雰囲気に呑まれるみたいに車内に腰を下ろしました。
まず俺たちは家族に挨拶をして、父が運転しながら自分の家族の簡単な説明を始めたんです。
母は助手席で前を見て座っている間はよく分からなかったんですけど、横顔が見える角度になると、母も異様でした。
ウェディングドレスみたいに真っ白なサマーワンピースで、顔のメイクが、バカ殿かと思うくらいの白粉ベタ塗りだったんです。
極めつけは母の名前で、『聖(セント)ジョセフィーヌ』って言うらしいんですよ。
ちなみに父は『聖(セント)ジョージ』らしいんです。
ここで俺は、背筋がじわっと冷えるのを感じました。
双子にも名前があって、『赤』と『青』だと言うんです。
赤ら顔の方が『赤』で、ほっぺたに青痣がある方が『青』。
普通、自分の子供にこんな名前をつけますか……って、思いますよね。
俺たちはこの時点で目配せをして、「適当なところで降ろしてもらおう」と決めていました。
正直、狂っているとしか思えなかったんです。
父と母が主に話しかけてきて、俺たちも上の空で適当に返していました。
双子はまったく喋らず、同じ姿勢、同じペースでコーラのペットボトルをラッパ飲みしていました。
ゲップまで同じタイミングで出した時は、筋が凍るってこういうことかと思って、もう限界だと思ったんですよ。
「あの、ありがとうございます。もうここらで結構ですので……」
発車して15分も経たないうちに、カズヤが口を開きました。
でも父はしきりに引き止め、母は「熊が出るから!今日と明日は!」と意味不明なことを言うんです。
俺たちは腰を浮かせて「本当にもう結構です」と訴えましたが、父は「せめて晩餐を食べていけ」と言って、降ろしてくれる気配がないんですよね。
夜中の2時になろうかという時に晩餐も晩飯もないだろ、って話なんですけど……。
双子の中年たちは相変わらず無口で、今度は棒付きのペロペロキャンディを舐めていました。
「これ、マジでヤバいだろ」とカズヤが小声で囁いてきました。
俺も相槌を打つしかなかったんです。
父と母がずっと話しかけてくるので、まともに相談もできないんですよ。
一度、父の言葉が聞こえなかった時なんて、「聞こえたか!!」って剣幕で怒鳴られました。
その瞬間、双子が同時にケタケタ笑い出して、俺たちはいよいよ確信したんです。
「ああ、これ、ほんとにヤバいんだ」って。
キャンピングカーが国道を逸れて山道に入ろうとしたので、さすがに俺たちは立ち上がりました。
「すみません、本当にここで。ありがとうございました」と運転席に駆け寄ったんです。
父は延々と「晩餐の用意が出来ているから」と言って聞きません。
母も「素晴らしく美味しい晩餐だから、是非に」と引き止めてきます。
俺たちは小声で話し合いました。
いざとなったら逃げるぞ、と。
走行中は危ないので、車が止まったら逃げよう、と。
やがてキャンピングカーは山道を30分ほど走り、小川がある開けた場所に停車しました。
「着いたぞ」と父が言ったんです。
その時、キャンピングカーの一番後部のドア(俺たちはトイレだと思っていました)の向こうから、子供みたいな笑い声が聞こえました。
「キャッキャッ」
まだ誰かが乗っていたのかと思って、心底ぞっとしたんですよね。
母が言いました。
「マモルもお腹すいたよねー」
マモル……家族の中では、唯一マシな名前に聞こえました。
幼い子供なのか、と俺は思ったんです。
すると、今まで無口だった双子の中年たちが、口をそろえて叫びました。
「マモルは出したら、だぁ・あぁ・めぇ!!」
「そうね、マモルはお体が弱いからねー」と母。
「あーっはっはっはっ!!」と、いきなり爆笑する父。
カズヤが震える声で言いました。
「ヤバい、こいつらヤバい。フルスロットル……」
俺たちは車の外に降りました。
よく見ると、川のそばで焚き火をしている男がいたんです。
まだ仲間がいたのかと思って、絶望的な気持ちになりました。
異様に背が高くてゴツい体格で、2m近くあるんじゃないかって感じでした。
父と同じテンガロンハットみたいな帽子を被り、スーツ姿という異様さも同じなんです。
帽子を目深に被っていて、表情が一切見えません。
焚き火に浮かび上がったキャンピングカーのフロントに描かれた十字架も、妙に不気味に見えました。
男は、ミッ○ーマ○スのマーチの口笛を吹きながら、大型のナイフで何かを解体していたんです。
毛に覆われた足から見ると、どうやら動物みたいでした。
イノシシか野犬か……どっちにしても、そんなものを食わされるのは御免でした。
俺たちは逃げ出す算段をしていましたが、予想外の大男と大型ナイフの組み合わせに、どうしても萎縮してしまったんですよね。
「さあさ、席に着こうか!」と父。
大男がナイフを置き、そばでグツグツ煮えている鍋に味付けをしているようでした。
そこでカズヤが言いました。
「あの、しょんべんしてきます」
逃げるための口実だと、俺にも分かりました。
俺も一緒に行くことにしました。
「早くね~」と母。
俺たちはキャンピングカーの横を通り、森に入って逃げようとした、その瞬間だったんです。
キャンピングカー後部の窓に、異様におでこが突出して、目の位置が異様に低く、両手もパンパンに膨れ上がった何かが、バン!と顔と両手を貼り付けて叫びました。
「マーマ!!」
もう限界でした。
俺たちは脱兎のごとく森へ逃げ込みました。
後方で父と母が何か叫んでいましたが、気にする余裕なんてなかったんですよ。
「ヤバいヤバいヤバい」とカズヤは呟きながら森の中を走り、俺たちも何度も転びました。
「とにかく下って県道に出よう」と、俺は小さなペンライト片手にがむしゃらに森を下へ下へと走ったんです。
でも、考えが甘かったんですよね。
小川のあった広場から町の明かりは近くに見えた気がしたのに、1時間ほど激走しても明かりが見えてこないんです。
完全に道に迷っていました。
心臓も手足も根を上げて、俺たちはその場にへたり込みました。
「……あのホラー一家、追ってくると思うか?」とカズヤが言いました。
「俺たちを食うわけでもないだろうし、そこまでは追ってこないんじゃないか。映画じゃあるまいし、ただの少しおかしい変人一家だろ。最後に見たやつは、ちょっとチビりそうになったけどな」と俺は返しました。
「荷物……どうするか」とカズヤ。
「幸い、金と携帯は身につけてたしな。服は残念だけど諦めるしかないだろ」と俺。
「マジ半端ねぇな」とカズヤ。
「ほんとにな」と俺。
俺たちは精神も極限だったのか、なぜかおかしさがこみ上げてきて、二人でしばらく笑ってしまったんです。
でも笑いが止まった途端、森独特のむせ返るような濃い匂いと、周囲が一切見えない暗闇が現実としてのしかかってきました。
変態一家から逃げたのはいいけど、ここで遭難したら話にならないんですよね。
樹海じゃあるまいし、まず遭難はしないはずだと頭では分かっていても、万が一の想像がどんどん膨らんでしまいました。
「朝まで待った方が良くないか?さっきのババァじゃないけど、熊までいかなくても野犬とかいたらな……」とカズヤが言いました。
俺は一刻も早く下りたかったんですけど、真っ暗闇で無理に進んで、さっきの川原に戻るのも怖いんですよ。
だから倒れた古木に座って休憩することにしました。
最初はあれこれ喋っていたんですけど、極端なストレスと疲労のせいで、だんだん意識が飛ぶみたいになっていきました。
はっと目が覚めて、反射的に携帯を見ると午前4時でした。
辺りはうっすら明るくなってきていたんです。
横を見るとカズヤがいなくて、一瞬パニックになったんですが、俺の真後ろに立っていました。
「何やってるんだ?」と俺が聞きました。
「起きたか……聞こえないか?」と、木の棒を持って何かを警戒している様子だったんです。
「何が……」と俺が言いかけると、カズヤが低い声で止めました。
「シッ」
かすかに遠くから音が聞こえました。
口笛でした。
ミッ○ーマ○スのマーチの。
CDに録ってもいいくらい通る美音で、でも俺たちにとっては恐怖そのものだったんですよね。
「あの大男の……」と俺。
「だよな」とカズヤ。
「探してるんだよ、俺らを!!」とカズヤが言った瞬間、俺たちはまた猛ダッシュで森の中へ駆け出しました。
辺りがやや明るいせいか、前より周囲が見えるんです。
躓いて転ぶ心配が減った分、俺たちは必死に走れました。
20分くらい走ったでしょうか、少し開けた場所に出ました。
今は使われていない駐車場みたいな場所で、木々越しに街の景色がうっすら見えたんです。
「だいぶ下ってこれたのかもな」と思った矢先、カズヤが言い出しました。
「腹が痛い」
我慢できないらしいんですよね。
駐車場の隅に古びたトイレがありました。
俺も多少もよおしてはいたんですが、大男がいつ追いつくか分からない状況で、個室に入る気にはなれませんでした。
俺が外で目を光らせる間に、カズヤが個室で用を足し始めました。
「紙はあるけどよ~ガピガピで、蚊とか張り付いてるよ……うぇっ。無いよりマシだけどよ~」
カズヤは文句を垂れながら、用を足していました。
その時、個室の中から急に大声がしました。
「なぁ……誰か泣いてるよな?」
「は?」と俺は声が出ました。
「いや、隣の女子トイレだと思うんだが……女の子が泣いてねぇか?」とカズヤ。
言われて初めて気づいて、耳を澄ませると聴こえました。
確かに女子トイレの中から、女の泣き声がするんです。
カズヤも俺も黙り込みました。
誰かが女子トイレに入っているのか、なぜ泣いているのか、頭が追いつかなかったんですよね。
「なぁ……お前確認してくれよ。だんだん泣き声ひどくなってるだろ……」とカズヤが言いました。
正直、気味が悪かったです。
でも、こんな山奥で女の子が寂れたトイレの個室で一人泣いているなら、何か大事があったのかもしれないじゃないですか。
俺は意を決して女子トイレに入り、泣き声のする個室に向かって声をかけました。
「すみません……どうかしましたか?」
返事はなく、泣き声だけが続きました。
「体調でも悪いんですか?すみません、大丈夫ですか?」
泣き声が激しくなるばかりで、こちらの問いかけに一向に返事がないんです。
その時、駐車場の上へ続く道から車の音がしました。
嫌な予感が確信に変わって、俺は飛び出しました。
「出ろ!!」
俺は女子トイレを飛び出して、カズヤの個室のドアを叩きました。
「何だよ」とカズヤ。
「車の音がする。万が一のこともあるから早く出ろ!!」と俺は言いました。
「わ、分かった」とカズヤ。
数秒後、青ざめた顔でジーンズを履きながらカズヤが出てきた、その瞬間です。
駐車場に下ってくるキャンピングカーが見えました。
「最悪だ……」と、俺の口から勝手に漏れました。
今、森へ飛び出したら確実にあの一家の視界に入ります。
選択肢は、トイレの裏側に隠れることしかなかったんです。
女の子を気遣う余裕は消えて、俺たちはトイレを出て裏側で息を殺してじっとしました。
頼む、止まるな、そのまま行け、そのまま……って、祈るしかなかったんですよね。
でも、女の子の泣き声が一向に止まらないんです。
「あの子があの一家にどうにかされるんじゃないか」って、そればかりが頭をよぎりました。
男子トイレに誰かが入ってきました。
声の様子から父でした。
「やぁ、気持ちが良いな。ハ~レルヤ!! ハ~レルヤ!!」
どうやら小の方をしているみたいでした。
その後すぐに、個室に入る音と、複数の足音が聞こえました。
双子でしょうか。
女子トイレに入った母の「紙が無い!」という声も聞こえました。
でも女の子はまだ泣きじゃくっているんです。
やがて父も、双子も(おそらく)トイレを出て行ったようでした。
母も出て行って、話し声が遠ざかっていきました。
おかしいんです。
女の子の泣き声はまだ続いていたのに、あの家族が反応しないんですよね。
気づかないわけがないのに、です。
俺とカズヤが怪訝な顔をしていると、父の声が聞こえました。
「~を待つ、もうすぐ来るから」
何を待つのかは聞き取れませんでした。
双子がぐずっているみたいな気配もあって、やがて平手打ちみたいな音、そして泣き声が聞こえてきました。
もう、悪夢でした。
楽しかったはずのヒッチハイクが、なんでこんなことになるんだよって、怒りまで込み上げてきたんです。
そこでカズヤが小声で言いました。
「あのキャンピングカーをぶんどって、山を降りる手もあるな。あのジジィどもをぶん殴ってでも。大男がいない今がチャンスじゃないのか?待ってるって、大男のことじゃないのか?」
でも俺は、向こうが俺たちに気づいてないなら、このまま隠れて通り過ぎるのを待つ方が得策だと思いました。
それに、女の子のことも気になるんです。
奴らが去ったら、ドアを開けてでも確かめるつもりでした。
その旨を伝えると、カズヤはしぶしぶ頷きました。
それから15分ほど経った時でした。
母の声がしました。
「~ちゃん来たよ~!(聞き取れない)」
待っていた主が到着したらしく、談笑している声が聞こえました。
そして、トイレへ向かってくる足音がします。
ミッ○ーマ○スのマーチの口笛。
アイツです。
軽快に口笛を吹きながら、大男が小を足しているらしかったんですよ。
その瞬間、女子トイレの泣き声が一段と激しくなって、なぜか絶叫みたいに変わって、ふっと消えました。
何かされたのか、見つかったのか、俺の頭が真っ白になりました。
でも、大男は男子トイレにいるし、他の家族が女子トイレに入った気配もないんです。
やがて口笛と共に大男がトイレを出て行きました。
女の子が連れ出されていないか心配になって、俺は危険を承知で一瞬だけ顔を覗かせました。
テンガロンハットにスーツ姿の、大男の背中が見えました。
その時、大男が突然叫びました。
「ここだったよなぁぁぁぁぁぁぁァァ!!」
俺は反射的に頭を引っ込めました。
ついに見つかったのかと、心臓が潰れるかと思ったんです。
でも続けて聞こえたのは、俺たちに向けた声じゃないみたいでした。
「そうだそうだ!!」と父。
「罪深かったよね!!」と母。
双子の笑い声。
「泣き叫んだよなァァァァァァァ!!」と大男。
「うんうん!!」と父と母。
「泣いた泣いた!! 悔い改めた!! ハレルヤ!!」と父と母。
双子の笑い声。
何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。
でも、どうやら俺たちのことではないんです。
やがてキャンピングカーのエンジン音が遠ざかり、車は去っていきました。
辺りはもう完全に明るくなっていました。
俺は変態一家が去ったのを確認して、女子トイレに飛び込みました。
全ての個室を開けましたが、誰もいません。
鍵も全部壊れていました。
そんな馬鹿な、って思いました。
後から女子トイレに入ってきたカズヤが、俺の肩を叩いて呟きました。
「なぁ、お前も途中から薄々気がついてたんだろ?女の子なんて、最初からいなかったんだよ」
俺は言葉が出ませんでした。
二人で幻聴を聴いたってことなのか、って。
確かに、あの一家が女の子に一切反応しなかったことを考えると、そうとしか思えない部分もあるんです。
でも、あんな鮮明な幻聴ってあるんですかね……。
駐車場からは、上りと下りに続く車道があり、下れば確実に国道に出るはずでした。
でも再び奴らのキャンピングカーに遭遇する危険もあるので、あえて森を突っ切ることにしました。
街は遠くない程度に見えていましたし、周囲も明るいので迷う可能性も少ないはずだったんです。
俺たちは無言で森を歩きました。
約2時間後、無事に国道に出ることができました。
でも着替えもない、荷物もない。
頭に浮かんだのは、あの親切なコンビニ店長でした。
朝になって交通量は増えていて、都会ほどじゃないにせよ車は通っていました。
あんな目に遭って、もう一度ヒッチハイクするのは度胸が要りましたが、なんとかトラックに乗せてもらえたんです。
ドライバーは俺たちの汚れた姿に最初困惑していましたが、事情を話すと快く乗せてくれました。
事情といっても、体験したことをそのまま話すのはさすがにどうかと思って、「キャンプ中に山で迷った」とだけ言っておいたんですよね。
運転手もそのコンビニを知っていて、よく寄るらしかったんです。
約1時間後、俺たちは例の店長がいるコンビニに到着しました。
俺たちはキャンピングカーの件を話したんですけど、途中から店長の顔が怪訝になっていきました。
「え?キャンピングカー?いや、俺はさ、君たちがあの時、急に店を出て国道沿いを歩いて行くから止めたんだよ。俺に気を使って送ってもらうのが悪いと思って歩いていったのかなって。10mくらい追って行って、こっちが話しかけても君らがあんまり無視するもんだから、こっちも正直、気ィ悪くしちゃってさ。どうしたのさ?(笑)」
……どういうことなのか、俺は背中が冷たくなりました。
俺たちは確かに、あのキャンピングカーがコンビニに止まり、レジで会計しているところも見ているんです。
会計したのは店長です。
もう一人バイトの子もいたけど、その時は上がっていたのかいませんでした。
「店長もグルか?」なんて不安が胸をよぎって、俺は思わずカズヤと目を見合わせました。
「すみません、ちょっとトイレに」とカズヤが言って、俺をトイレに連れ込みました。
「どう思う?」と俺が聞きました。
「店長がウソを言ってるとも思えんけど、万が一あいつらの関連者だったらってことだろ?でも何でそんな手の込んだことする必要がある?みんなイカれてるとでも?まあ、釈然とはしないよな。じゃあこうしよう。大事をとって、さっきの運ちゃんに乗せてもらおうぜ」とカズヤが言いました。
それが一番いい方法に思えました。
俺たちの意見がまとまって、トイレを出ようとした、その瞬間でした。
個室の方から水を流す音がして、同時にあのミッ○ーマ○スのマーチの口笛が聞こえたんです。
周囲が明るかったせいもあるのか、恐怖より先に怒りがこみ上げてきました。
それはカズヤも同じだったみたいです。
「開けろオラァ!!」
カズヤがガンガンドアを叩くと、ドアが開きました。
「な……なんすか!?」
中にいたのは、制服を着た地元の男子高校生でした。
「……いや、ごめんごめん、ははは……」とカズヤは苦笑いして引き下がりました。
幸い、騒ぎはトイレの外までは聞こえていない様子でした。
俺たちは高校生に謝って、店長と談笑しているトラックの運ちゃんの所へ戻りました。
「店長さんに迷惑かけてもアレだし、お兄さん、街までお願いできませんかねっ。これで!」
カズヤは運ちゃんが吸っていた銘柄のタバコを1カートン、レジに置いて交渉しました。
交渉成立でした。
例の一家の件で警察に行こうとは、さらさら思いませんでした。
あまりにも現実離れしていて、俺たちも早く忘れたかったんですよね。
リュックに詰めた服が心残りではありましたが……。
幸運なことに、ドライバーのトラックは市街へ向かうルートだったんです。
タバコのお礼もあってか、終始上機嫌で運転してくれて、いつの間にか俺たちは車内で寝ていました。
ふと目が覚めると、ドライブインでトラックが停車していました。
ドライバーが焼きそばを3人分買ってきてくれて、車内で食べました。
走り出すと、カズヤはまた眠りに落ちました。
俺は眠れず、窓の外を見ながらあの悪夢を思い返していました。
一体あいつらは何だったのか。
トイレの女の子の泣き声は……。
その時、思案が吹き飛びました。
「あっ!!」
俺は思わず声を上げていました。
「どうした?」とドライバーのお兄さんが聞きました。
「止めて下さい!!」と俺は言いました。
「は?」と運ちゃん。
「すみません、すぐ済みます!!」と俺。
「まさかここで降りるのか?まだ市街は先だぞ」と言いながら、しぶしぶ路肩に止めてくれました。
その問答でカズヤも起きたみたいでした。
「どうした?」とカズヤ。
「あれ見ろ」と俺が言うと、カズヤが絶句しました。
朽ち果てたドライブインに、あのキャンピングカーが止まっていたんです。
間違いない色合い、形、フロントに描かれた十字架……でも、何かがおかしかったんですよね。
車体が何十年も経ったみたいにボロボロに朽ちていて、タイヤは全部パンクし、窓ガラスも全部割れていました。
「すみません、5分で戻ります。5分だけ時間ください」と運ちゃんに説明して、トラックを止めてもらったまま、俺たちはキャンピングカーへ向かいました。
「どういう事だよ……」とカズヤが呟きました。
俺だって聞きたいくらいでした。
近づいて確認しても、間違いなくあのキャンピングカーだったんです。
周囲が明るくて車の通過音もあるせいか、恐怖よりも「なぜ?」という好奇心が勝っていました。
錆び付いたドアを引き開け、酷い匂いのする車内を覗き込んだ、その瞬間です。
「オイオイオイオイ、リュック!! 俺らのリュックじゃねぇか!!」
カズヤが叫びました。
確かに、俺たちが車内に置いて逃げてきたリュックが2つ置いてあったんです。
でも車体と同じように、まるで何十年も放置されていたかのようにボロボロに朽ちていました。
中身を確認すると、服や日用品も同じように朽ちていました。
「どういう事だよ……」とカズヤがもう一度言いました。
俺の脳も正常な思考ができなくなっていました。
とにかく一刻も早く、この忌まわしいキャンピングカーから離れたかったんです。
「行こう、行こう」と俺が言うと、カズヤも怯えた顔で頷きました。
車内を出ようとした、その時です。
一番奥のドアの向こうで、「ガタッ」と音がしました。
ドアは閉まっています。
開ける勇気なんてありません。
恐怖で半分パニックだったので、今となっては本当にそう聴こえたかどうかも分かりませんし、もしかしたら猫の声だったのかもしれません。
でも、その時は確かに、そう聴こえたんです。
「マ ー マ!!」
俺たちは叫びながらトラックへ駆け戻りました。
すると、なぜか運ちゃんも、心なしか顔が青ざめているように見えました。
無言でトラックを発進させる運ちゃん。
「何かあったか?」と運ちゃんが言いました。
俺も同時に言ってしまいました。
「何かありました?」
運ちゃんは苦笑いして言いました。
「いや……俺の見間違いかもしれないけどさ……あの廃車、お前ら以外に誰もいなかったよな?いや、いるわけないんだけどさ……いや、やっぱいいわ」
「気になります、言って下さいよ」とカズヤが食い下がりました。
運ちゃんは少し迷ってから、ぼそっと言いました。
「いやさ……見えたような気がしたんだよ。カウボーイハット?って言うのか、日本で言ったらボーイスカウトが被るような。あれを被った人影が見えた気がしてさ。で、何故かゾクッとして、その瞬間、俺の耳元で口笛が聴こえてよ……」
「どんな感じの口笛ですか?」と俺は聞いてしまいました。
「曲名は分かんねぇけど、こんな感じでよ」と言って、運ちゃんが口笛を吹きました。
それが、ミッ○ーマ○スのマーチだったんです。
運ちゃんは笑って誤魔化していましたが、その笑いがどこか引きつって見えたのを、俺は忘れられません。
それから30分ほど、トラックの中は無言でした。
市街が近くなった頃、俺は最後にどうしても聞いておきたいことがあって、運ちゃんに尋ねました。
「あの、最初に乗せてもらった国道の近くに、山ありますよね?」
「あぁ、それが?」と運ちゃん。
「あそこで前に、何か事件とかあったりしました?」と俺。
「事件……?いやぁ聞かねぇなぁ……山つっても3つくらい連なってるからな、あの辺は。あ~でも、あの辺の山でだいぶ昔に、若い女が殺された事件があったとか……それくらいかぁ?あとは普通にイノシシの被害だな。怖いぜ、野生のイノシシは」と運ちゃんは言いました。
俺が言葉を継ぐ前に、カズヤが食い気味に入ってきました。
「女が殺されたところって……トイレっすか?」
「あぁ、確かそう。何で知ってる?」と運ちゃん。
俺たちは礼を言って市街で降ろしてもらい、安心感からか、その日はホテルで爆睡しました。
翌日から翌々日には、新幹線を乗り継いで地元に帰っていました。
なるべく思い出したくない悪夢みたいな出来事なのに、時々ふっと思い出してしまうんですよね。
あの一家は一体何だったのか、実在の変態一家なのか、幻なのか、この世の者ではないのか。
あの山のトイレで確かに聴こえた、女の子の泣き叫ぶ声は何だったのか。
ボロボロに朽ち果てたキャンピングカーと、同じように朽ちた俺たちのリュックは、一体何を意味していたのか。
考えだすと止まらないんですよ。
たまに遊ぶ悪友の仲は、今でも変わりません。
コイツの底抜けに明るい性格に、あの悪夢みたいな旅の出来事が、いくらか気持ち的に助けられた気もするんですよね。
30にも手が届こうかという現在、俺たちは無事に就職もできて(だいぶ前の話ですけど)、普通に暮らしています。
カズヤは未だにキャンピングカーを見るとダメらしく、俺はあのミッ○ーマ○スのマーチがトラウマになっています。
チャンララン チャンララン チャンラランララン チャンララン チャンララン チャンラランララン♪
先日の合コンでも、女性陣の中にこの着信音の子が一人いて、心臓が縮み上がったんですよ。
今でもあの一家、特に大男の口笛が夢に出てくることがあります。