
「Blue」のあらすじ(ネタバレあり)です。「Blue」未読の方は気を付けてください。ガチ感想も書いています。この記事では、第170回芥川賞候補作にも選ばれた川野芽生さんの注目作、『Blue』の物語の核心に深く触れていきます。
本作は、トランスジェンダーの主人公が経験する性の揺らぎと、それに伴う苦悩や希望を描いた物語です。高校時代に一度は手にしたはずのアイデンティティが、大学進学とコロナ禍という社会の変化によって、いともたやすく崩れ去っていく様は、読んでいて胸が締め付けられます。
物語の重要なモチーフとなるのが、アンデルセンの『人魚姫』です。主人公たちが演じるオリジナルの演劇を通じて、「何者かになる」とはどういうことなのか、そしてそのために何を代償にするのかが鋭く問われます。この『人魚姫』の解釈が、『Blue』という物語そのものに深い奥行きを与えているのです。
この記事では、物語の結末までを含んだ詳細なあらすじと、そこから見えてくるテーマについての踏み込んだ考察を記しています。そのため、これから「Blue」を読もうと思っている方にとっては、重大なネタバレとなりますので、その点をご理解の上、読み進めていただければと思います。
読み終えた後に、きっと誰かとこの物語について語り合いたくなるはずです。それでは、切なくも美しい『Blue』の世界へご案内します。
川野芽生「Blue」のあらすじ(ネタバレあり)
主人公の朝倉真砂は、戸籍上は男性ですが、自身の性に違和感を持ち、高校では「真砂」という名前で女子生徒として生活を送ることを決意します。理解ある両親のもと、二次性徴抑制剤を投与しながら、念願だった女の子としての日常を手に入れます。
彼女が進学したのは、女子生徒が多い普通科高校。そこで演劇部に入部し、仲間たちと出会います。部長で長身の宇内瑠美、脚本を担当する小柄な滝上ひかり、そしてヒロイン役が多い水無瀬樹。彼女たちと共に、文化祭で上演する演劇の準備を始めます。
演目は、ひかりがアンデルセンの『人魚姫』を翻案したオリジナル脚本『姫と人魚姫』。真砂は、自ら望んで主役の人魚姫役を演じることになります。彼女は、人間になるために声を失う人魚姫の姿に、自らの境遇と「女の子になりたい」という切実な願いを重ね合わせていました。
真砂は、人魚姫を演じきることによって、「女の子であること」を証明できると信じていました。そして文化祭当日、彼女の演技は喝采を浴び、大きな成功を収めます。それは、真砂にとってアイデンティティが確立された、輝かしい瞬間でした。
しかし、大学進学後、彼女の日常は暗転します。世界中を襲ったコロナ禍により、性転換手術のために貯めていたアルバイト代を稼ぐことができなくなってしまったのです。さらに、二次性徴を抑えるための治療も「不要不急」とされ、中断を余儀なくされます。
治療が途絶えたことで、真砂の身体は徐々に男性化していきます。声は低くなり、体毛も濃くなる。鏡に映る自分の姿と内面の乖離に、彼女は深く絶望します。高額な治療費を理由に、両親も手術には反対の立場を示し、真砂は孤立感を深めていきます。
孤独の中、彼女は「眞砂」と名前の表記を変え、男性としての姿で生活を始めます。もはや「女の子」として生きることを諦めてしまったのです。そんなある日、高校時代の演劇部の仲間から、『姫と人魚姫』を再演しないかという誘いが舞い込みます。
しかし、眞砂は頑なにその申し出を拒絶します。今の自分は、あの時になりたかった人魚姫ではない。もはや自分には人魚姫を演じる資格はない、と。過去の輝かしい記憶は、今の彼を苦しめる棘となっていました。
大学で出会った、どこか不幸な影をまとう女性・榊葉月との関係も、彼の心をさらに揺さぶります。他者との関わりの中で、自分の性のあり方が分からなくなっていくのです。
物語の終盤、眞砂は演劇部の仲間たち、特に脚本を書いたひかりとの対話を通じて、再び自分自身と向き合います。ひかりは、眞砂がどんな性別であっても、眞砂自身が変わるわけではないと、彼の存在そのものを肯定します。仲間たちの変わらぬ友情に触れ、眞砂の心は少しずつ解きほぐされていくのでした。
川野芽生「Blue」の感想・レビュー
川野芽生さんの『Blue』を読み終えた今、心にずしりと重い、けれど確かな光のようなものが残っています。これは単にトランスジェンダーの苦悩を描いた物語ではありません。社会が作り上げた「カテゴリー」の中で、いかに自分自身の輪郭を保ち、生きていくかという、私たち一人ひとりが直面する普遍的な問いを突きつける作品です。
物語は、主人公・真砂が「女の子」として生きる高校時代と、そのアイデンティティが崩壊していく大学時代という、鮮やかな対比で描かれます。高校時代の彼女は、演劇『姫と人魚姫』で主役を演じることで、自分の存在を証明しようとします。人魚姫が人間になるために声を失ったように、彼女もまた、「男である」という過去の声を捨て、女の子という新しい世界で生きようと必死にもがいている。この切実さが、読む者の胸を強く打ちます。
しかし、『Blue』の巧みなところは、その輝かしい成功譚で終わらせない点にあります。大学進学後、コロナ禍という抗いようのない社会の変化が、彼女の計画を無慈悲に打ち砕きます。治療の中断によって身体が男性化していく描写は、非常に生々しく、痛々しい。アイデンティティが身体という容れ物によって規定されてしまう現実。それは、彼女がどれだけ「女の子」でありたいと願っても、社会が、そして生物学的な現実がそれを許さないという残酷な事実を突きつけます。
この物語の核心に触れるためには、やはり『姫と人魚姫』という劇中劇の存在が欠かせません。真砂は人魚姫を「めちゃくちゃわがままで、自由な女の子」だと解釈します。それは、王子様のために人間になるのではなく、自分自身の意志で未知の世界へ飛び込む存在。この解釈こそ、真砂がなりたかった理想の姿そのものでした。この部分には重大なネタバレが含まれますが、彼女にとって人魚姫を演じることは、単なる演技ではなく、アイデンティティの獲得そのものだったのです。
その輝かしい記憶があるからこそ、大学時代の眞砂の苦悩はより一層深くなります。「女の子」でなくなった自分に、もはや人魚姫を演じる資格はない。再演の誘いを頑なに拒む彼の姿は、過去の自分に縛られ、未来へ踏み出せずにいる人間の普遍的な苦悩と重なります。この部分の心理描写は圧巻で、『Blue』という作品の持つ文学的な深さを感じさせます。
眞砂を支える友人たちの存在も、この物語に温かな光を与えています。特に、脚本を書いた滝上ひかりの言葉は、眞砂だけでなく、読者の心にも深く響きます。彼女は、眞砂がどのような性別であっても、彼の本質は変わらないと伝えます。「女の子」というカテゴリーに収まるかどうかではなく、「眞砂」という一人の人間として彼を見つめている。この視点こそ、『Blue』が読者に伝えたかったメッセージの一つではないでしょうか。
物語は、眞砂が再び人魚姫を演じたかどうかを明確には示しません。しかし、この結末だからこそ、深い余韻が残ります。大切なのは、彼が「女の子」という枠組みに戻れたかどうかではない。彼が、揺らぎ、迷いながらも、他者との関わりの中で自分自身の足で立とうとしていること。その姿こそが、何よりも尊いのだと物語は語りかけてくるのです。
私がこの作品を読んで強く感じたのは、「わかりやすさ」という暴力性です。社会は私たちに、男/女、健常者/障がい者といった、わかりやすいカテゴリーに収まることを求めがちです。しかし、人間の心や身体は、そんなに単純なものではありません。そのグラデーションの中にこそ、その人だけの「青色」がある。『Blue』というタイトルは、そんな多様で、名前のつけられない状態そのものを象徴しているように思えてなりません。
眞砂の両親の描き方も秀逸です。彼らは決して差別的な人間ではありません。息子の選択を理解し、応援さえしています。しかし、高額な手術となると躊躇し、眞砂が「女性」というカテゴリーに収まることに疑問を呈する。この「理解ある」人々の中に潜む無意識の偏見こそ、当事者を最も深く傷つけるのかもしれない。このあたりの描写には、現代社会が抱える問題の縮図を見るようでした。
この物語は、多くのネタバレ情報に触れた上で読んでも、その価値が少しも損なわれないでしょう。むしろ、結末を知っているからこそ、眞砂の一つ一つの選択や心の揺れ動きが、より切実に感じられるかもしれません。彼の苦しみは、彼一人のものではなく、社会が生み出したものでもあるからです。
『Blue』は、声にならない声を拾い上げ、それに美しい物語という輪郭を与えた作品です。読み手は、眞砂と共に悩み、傷つき、そして最後には、彼が踏み出す一歩に、かすかな、しかし確かな希望を見出すことになるでしょう。
物語の結末は、ある意味で非常に現実的です。魔法のように全ての問題が解決するわけではありません。性別の揺らぎという悩みも、おそらく彼の人生から消えることはないでしょう。それでも、彼は生きていく。仲間たちとの絆を胸に、自分だけの「青」を探して。その静かな決意に、私たちは勇気づけられるのです。
この物語には、派手な事件や劇的な展開はありません。しかし、人の内面で起こる嵐のような葛藤を、静かで、けれど力強い筆致で描ききっています。ネタバレを読んで興味を持った方にも、ぜひ実際に手に取って、この静謐な文章の力を味わってほしいと心から思います。
川野芽生さんという作家の、人間に対する深く、そして優しい眼差しを感じずにはいられません。性のあり方に悩む人々はもちろんのこと、「自分とは何か」という問いに一度でも向き合ったことのあるすべての人にとって、『Blue』は忘れられない一冊となるはずです。
最後に、これは私の個人的な感想ですが、眞砂が再び舞台に立つかどうかという結末の曖昧さは、読者への信頼の証でもあると感じています。答えを安易に提示せず、私たちに思考の余地を残してくれる。優れた文学だけが持つ、豊かさがここにはあります。
まとめ:川野芽生「Blue」の超あらすじ(ネタバレあり)
- 主人公・真砂は、戸籍上は男性だが、高校では女子生徒として生活している。
- 演劇部に入部し、翻案脚本『姫と人魚姫』で主役の人魚姫を演じることになる。
- 文化祭で人魚姫を演じきり、「女の子であること」を証明できたと感じ、アイデンティティを確立する。
- 大学進学後、コロナ禍で性転換手術の資金が稼げなくなり、二次性徴抑制治療も中断する。
- 治療の中断により身体が男性化し始め、声変わりなどに深く絶望する。
- 「眞砂」と名を変え、男性の姿で生活を送るようになり、「女の子」であることを諦めてしまう。
- 高校時代の仲間から『姫と人魚姫』の再演を誘われるが、今の自分にその資格はないと頑なに拒絶する。
- 大学で出会った女性・葉月との関係や、仲間たちとの再会を通じ、自身のあり方にさらに苦悩する。
- 脚本を書いた友人・ひかりに、性別に関係なく「眞砂は眞砂だ」と、存在そのものを肯定される。
- 仲間たちの友情に支えられ、揺らぎながらも自分自身を受け入れ、未来へ歩き出すことを示唆して物語は終わる。